由緒

創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」旧跡の一社である。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集めている。

社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」(注1)旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。

(注1)古代難波において、王権のもとに執り行われた最も古い祭祀とされ、奈良時代には即位儀礼の一環として、即位の翌年に、天皇自ら難波の海辺に行幸し斎行されていたと考えられている。

社名のおこり

菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。
(その他諸説有り)

昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。この故事にちなみ、露 天神社と称すると伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説)
なお管公は、元和8年(1622年)3月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。

◆『摂陽群談』では、入梅の時期に祭礼をすることから「梅雨天神」と称するという。また、他説では梅雨時期になると清水が湧き溢れる井戸が境内に存することによるとも伝えられている。

  • (注2)浪速七名井「神泉 露の井戸」
    真水の少ない大阪で、周辺地域のみならず社地横を通る旧池田街道を行き通う人々にとっても、貴重な井戸であった。
    梅雨時期には清水を地上に湧き出したと伝えられ、当社社名の起こりともいわれる。境内に現存するが、水量は少ない。

 社殿・境内

現在の社殿は、旧社殿が昭和20年6月に太平洋戦争で焼失したため、昭和32年9月20日に造営竣工したものである。
昭和52年10月20日には管公御神忌1075年祭並びに、社殿復興20周年記念事業として、境内各所の修復、透塀・玉垣の新設を、平成5年には社務所・参集殿・正門・鳥居などを造営した。

 御祭神
少彦名大神(すくなひこなノおおかみ)

医学・薬学・病気平癒・商売繁盛・造酒・温泉・国土経営の守護神、高皇産霊大神の御子。<えびすの神>なり。

少名毘古那大神とも表記し、大國主大神(大己貴大神)と兄弟の誓いを交わし、ともに力を合わせ国土経営に努められた。また日本書紀では、医学・薬学の祖神にして病気平癒の神と記載されている。 このほか、一般にいわれる『恵比寿神・大黒神』の恵比寿神とはこの神のことで、商売繁盛の神とも崇敬されている。

大己貴大神(おおなむちノおおかみ)

国土経営・武運長久・病気平癒・結縁の守護神、素箋鳴命六世の御孫御別名、大國主大神・大穴牟遅大神

天下を経営し病を癒する方法を定められたと伝えられている。勇猛にして武威盛んで、他方、結縁・病気平癒の御神徳も偉大、剛柔合わせ持つ大神である。大國さんとしても親しまれている。

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

皇室の大御祖神にして、御神徳は宏大無辺・光華明彩。上下等しく日神と崇めまつる。

伊耶那岐(いざなぎ)・伊耶那美(いざなみ)二神の御子で、須佐之男命(すさのおのみこと)の御姉君にあたる。記紀にも数多く登場する日本神話の主人公のひとり。伊勢の神宮(内宮)に祀られ、日本国全土の総氏神さまと尊崇されている。

豊受姫大神(とようけひめノおおかみ)

天下生民の食物を主宰し給う大神。伊勢の外宮に祀られる。

天照皇大神の御饌調進の神で、御神勅によって丹波国から現在の伊勢・山田の地に移し鎮め祀られる。 皇大神宮と等しく皇室の崇敬は殊に厚い。

菅原道真公(すがわらみちざねこう)

勉学・学問の神。平安初期の学者、政治家。

幼少の頃より頭脳明晰で、詩歌に優れ5歳で「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」と詠じて周囲を驚かせた。
長じては学問だけでなく、朝廷の信任を得て政治家としても出世した。53歳で右大臣まで登りつめたが、無実の罪に問われ大宰府へ配流され、失意のうちに59歳で御他界された。
管公の没後、権力者の変死や天変地異が相次いだ。人々はこれを管公の怨霊によるものと恐れ、朝廷は各地に天満宮を創建し、管公に『天満大自在天神』の神号を贈り、国を挙げて祀るようになった。

神牛舎

「神牛さん」「撫で神牛さん」と呼ばれ、身体の病む処と神牛さんのそれを交互に撫で摩るという信仰が、古来より続いている。神牛さんに身代わりになっていただく、または神牛さんの霊力を持って病を治癒していただこうというものである。
昨今は、学力の向上を願う学生や受験生も多数参詣する。